いつのまにか雑貨屋さんになっていた その②

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本編より、共感した部分をご紹介したいと思います・・・。   ※ 本書は30年前の絶版本です ※

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< 鮮烈な印象で小さな自我に目覚めた二十年前から、第X期自我の目覚めを迎えた現在まで、物と私の関係は、私の奥深い部分に値をおろし、芽を出して育っているのです。
それは、他人には、絶対に踏み込ませない、私だけの世界。>

< 物に対する愛情、探究心、執着心は、物を所有するという手段を経て、私のところに、軌跡となって戻ってきます。>

< ただ、「物」と係わり合いを持つ、共犯者的関係があるだけ。そこに誰にもわからない会話が存在することです。>

< 物にひかれる-そこには、その品物と、私なり、あなたなりと言う、ひとりの人格を持った人間とのイマジネーションのひらめきからくる深いつながりがあります。>

< 私は日記をつけません。( 中略 )私はその手段を、私と同化している「物」に託しました。>

< 私はもったいないから捨てられないのではなく、これもあれも、みんな大切な時が刻まれているから捨てることはできない。>

< ( だったら文字に綴ればよいでしょう。)いいえ、私の力では、とても文字に表現することはできないくらい、いっぱいいっぱい私の日記がある。だからそれは不可能なこと。私は、周囲のものにつぶされて死んでもかまわない。寝る場所がなくなってもいい。これらの仲間たちは、みんな「私」なのだから。>

(いつのまにか雑貨屋さんになっていた)より

ワタシは、小学生の頃から、失ったモノを探し続けています。
そんな自分の?な感情を、いちばん的確な表現してくれたみたいで、何度も読み返した文章です。

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本書の中で、興味深いエピソードが記されています。
親戚の「 カメオに彫られた貴婦人のように美しい叔母さん 」が登場する二節。

~「 叔母に惹かれて物狂い 」~
 クロゼットの引き出しに入った、宝物をみせてもらいました。数え切れないきれいな布。これがハンカチであると、どうして想像できたでしょう。
叔母の持っているアクセサリーを見た瞬間は、アレキサンダー大王がダイヤやルビーの宝石を発見した時の興奮といっても、過言ではありません。
叔母さんが出かけるときには傍にかじりついて宝石を選ぶのを眺め、それがとても素晴らしい出来事だったんです。~
 ( 本書より (中略) )

それなのに。3、4歳の著者は叔母さんの大切な宝石類を溝に捨てるという行動もとっているのです。
庭に穴を掘って埋めることまで。。。

大変な騒ぎになり、ショックで寝込んでしまう美しい叔母。叱らずに、哀しそうな眼で自分をみるだけの大人。

~ あの時、私、何に対してそんな事をしたのかわからなかった。おばさまに対してか、キラキラ輝く物に対してか。~
 ( 本書より )

どうしてそんな事をしたのか、著者ご本人にも理解しきれていない、幼い頃のお話です・・・。
不可思議なひとの心。子供の残酷さ。
欲しいモノだらけで身悶えてきたワタシには、どこかちょっとだけ理解できる面もありますが・・・。

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本書が出版されたのが1977年。30年を経ても輝きを失わない、モノへの好奇心と憧れ。
宝物を発見した時の純粋な喜び。

< ですから、私の雑貨屋稼業は、死ぬまで続くでしょう。(中略)私は雑貨屋です。店主も客も私自身。資本金は、なし。好奇心と憧れだけで始めた商売。>

現代は、ブログというたくさんの素敵な雑貨屋さんが、様々な夢を運んでくれる時代。

その店頭に並んでいるのは、すべて( 非売品 )!。
ブログとは、「 夢屋 」さん☆とも呼べるのでしょうか・・・。 (*'-')ノ~。.*・゜